マダン劇を楽しく見るために

● マダンとは「広場」、「中庭」を意味します。1970〜80年代にかけて、韓国の若者たちが演劇の世界で創りあげた演劇のひとつのスタイルですが、その根源は民俗文化に由来します。朝鮮半島で古くから民衆に愛されてきた芸能のスタイルとして、風刺劇やタルチュム(仮面踊り)、農楽(チャンゴ、ケンガリ、プク、チンの4種類の打楽器を用いた演奏)などがマダンで行われてきました。マダンの周りを観客がぐるりと取り囲み、演者と観客が声をかけあいながら、一体となって楽しむのです。それを西洋から入ってきた舞台演劇に取り入れ、民衆の伝統的な文化の楽しみ方を再現したのがマダン劇、もしくはマダンノリといいます。

● 今回、済州島から来るノリペ・ハルラサンは、1987年に済州島で結成された劇団です。「ノリペ」とは、さまざまな芸能や踊り、楽器演奏をしながら各地をまわる旅芸人の集団を意味します。ハルラサンとは、済州島の中央にどっしりとそびえたち、済州島を象徴してやまない漢拏山のことです。標高1950mのこの山は、済州島の昔話に出てくるソルムンデ婆さんがスカートで土を運び造った山だと言われています。済州島の人々にとっては、聖なる山であり、海に囲まれた済州島に様々な自然のめぐみをもたらす山でもあります。 しかし、四・三事件当時は済州島民と討伐隊による死闘が繰り広げられ、中腹の村々が焼き払われた場所でもあります。済州島の歴史を背負ったこの山に名前をもらったノリペ・ハルラサンは、済州島を代表する劇団と言っても過言ではないでしょう。

● 独特の風刺を取り入れた舞台や、済州島の方言で海女の歌を歌ったり、シンバン神房(済州島の巫俗信仰のシャーマン)によるクッ(巫俗儀礼)が繰り広げられる舞台は、ノリペ・ハルラサンならではの魅力です。今回の創作劇"漢拏の慟哭"の原題は、"コンノルリム(花ノルリム)"といいます。これは若くして亡くなった死者の霊を慰めるため、花喪輿をかついで村を練り歩く儀礼を指します。四・三事件という歴史的出来事を題材としたこのマダン劇で、私たちはその慰霊の儀礼に直接参加し、歴史が民衆にもたらした死の意味をあらためて考えさせられるのではないでしょうか。

by toruharuban

マダン劇 『漢拏の慟哭』 解説

◆あ ら す じ
この物語は、済州島四・三事件で最も悲劇的であった、島の 北側に位置する、北村里での出来事にもとづくものである

はじまりのマダン
  日本の植民地支配から解放されて二年後の1947年8月頃。 北村里の牛飼いのトッコンたちは、自らの手で学校を建て、学びはじめる。 第一のマダン  トッコンたちは、朝鮮の歴史を学び、国づくりと新しい時代に希望を抱く。そんなトッコンの前に、「スパイになれ」とささやくソギュンが現れた。

第二のマダン
  トッコンの村で、だれかがビラを配った。警察官が発砲し、何のかかわりもない人たちが撃たれて、傷を負った。怒った住民は、派出所に押しかけて、抗議する。西北青年団員を殴ったトッコンは、警察からの仕返しを恐れ、山に逃げた。

第三のマダン
  済州島では、警察、西北青年団とアメリカ軍政からなる討伐隊の弾圧が繰り返された。耐えきれなくなった住民は、1948年4月3日、武装蜂起を決行。北村里の住民も、5月10日の単独選挙をボイコットした。済州島を「アカの島」とみなす、済州島以外の地域から派遣された討伐隊員は、ソギュンの手引きのもと、根拠もなく住民を拘束し、暴行や拷問を加えた。そして、中山間部落を全滅させる作戦を敢行する。明くる年の1月、妻が食料差し入れのために隠れ処を訪れ、「春になったら村に戻ろう」と話し合った。トッコン夫婦の目の前で、武装隊と討伐隊の交戦がはじまった。死者を出した討伐隊は、住民を北村国民学校の校庭に集めた。 「敵を射殺したことのない兵士たちに、経験を積ませてやろう!」。このような言い分で、数百人もの住民を集団虐殺し、村を焼き尽くした。

第四のマダン
  山を下りるや、トッコンは軍に捕まり、拷問を受ける。母の願いが通じたのか、放免されたが、その直後に出会ったのは、警察官になったソギュンだった。警察はトッコンに、村を離れての昼の畑仕事と、夜の見張りを命じる一方、「パルゲンイ(アカ)」と罵声を浴びせ、いやがらせをつづけた。1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。トッコンは「パルゲンイ」の汚名返上を胸に、入隊を志願した。

第五のマダン
  北村里は男のいない村になってしまった。ほとんどの男が四・三で命を落とし、生き残った数人の若者もみな軍隊に入って村を離れたからだ。それでも北村里の住民は、忍耐強く村の再建に努めた。トッコンの戦死通知が届いたのは、そのようなときだった。北村里の住民は、トッコンの死を惜しみ、コンノルリムであの世に送り出した。空(から)の花喪輿を担いで、村中をくまなく歩き廻り、北村国民学校の校庭に集まって、線香をたいて御酒を捧げた。そして、数年前にこの校庭で、無惨にも死に追いやられた家族や親類を思い出した。校庭はまもなく、「アイゴー、アイゴー」という涙の海になった。慟哭の中、警察が踏み込んで来て祭壇を足蹴にし、この出来事を「パルゲンイの慰霊祭」と呼び、中止させた。昇進していたソギュンの命令に、住民は憤怒を抑え、苦痛に耐えて、「二度と、慰霊祭や、集団行動は、絶対にいたしません」と何度も誓わされる。その顔には、いつしか悔し涙が……。四・三の傷跡は、時を経てもなお、沈黙の淵へと追い詰めるのだった。

おわりのマダン
  どのような抑圧があっても、四・三の真相究明と慰霊への思いは募るばかりだ。住民の募る願いと決意は、コンノルリムへとつづく。

◆登場人物の紹介

トッコン〔セテウリ〕 :25才、牛飼い
ジョンウン :25才、トッコンの妻
おっかあ〔オモン〕 :45才、 トッコンの母
インスク :35才、村の女
かかあ :30才
娘 :20才
スンヒョク :30才、先生役
ソギュン : トッコンの幼なじみ、密告 者、後に警察幹部に
支署長〔チソジャン〕
進行係り : 劇の流れをつなぎ、様々な 役をこなす
西青(西北青年団)

◆ マダン劇を楽しく観るための 豆知識

ソンジュ城主プリ  
劇は城主プリからはじまる。新しく家を建てる時に、招福・厄祓いのために行うクッ(巫俗儀礼)のこと。クッの中で「姜太公大工ノリ」という演劇的な儀礼が挿入される。姜太公という大工がヨンドゥン山の固い木を切って家を作る様子を模擬的に演じることにより、丈夫で良い家が建つことを祈願する。 プクチョンリ北村里  済州島北部の海辺に接する朝天面(当時)の村。日帝時代から抗日運動家を多く輩出した。五・一〇単独選挙もボイコットをした。1993年に開始した村の元老会などによる調査では、1949年1月17日の集団虐殺の死亡者476名が公表されている。この北村事件は、玄基榮(ヒョン・ギヨン)の小説「順伊(スニ)おばさん」の題材にもなっている。

中山間部落  
済州島の海岸線から5キロメートル以上離れた地域一帯を指す。なお、中山間焦土化作戦とは、住民が武装隊に一切の援助を施せないよう、また武装隊が村に潜伏できないようにとの目的から、一帯の住民を海岸線地帯に疎開させた後に村全体を焼き払うという討伐隊の作戦。疎開せずに残った住民すべてを「暴徒」とみなし、処断せよとの命令も含まれる。

アイゴー事件  
北村事件から五年後の1954年1月23日、朝鮮戦争に志願入隊していた青年が死亡し、遺体となって故郷・北村里に帰ってきた。村人による霊魂を慰めるコンノルリムの行列が、北村国民学校にさしかかったとき、五年前に虐殺された家族・親類を重ね合わせて、「アイゴー、アイゴー」と慟哭しはじめた。ところが、急ぎ駆けつけた警察隊によって制止され、取調べを受け、里長は反省文を書かされた。無念にも亡くなった死者の魂を慰めようと、御酒を一杯捧げることも、涙することも罪になる、悔しい恨の象徴として「アイゴー事件」は北村の住民に記憶されている。この一件は、済州島四・三事件が終わってもまだつづいた、凄惨な抑圧を物語る出来事といえよう。

コンノルリム  
天寿をまっとうできずに、若くして亡くなった死者の霊を慰めるために、花喪輿を担いで、死者にゆかりのある場所をねり歩き、最後に遊ばせて慰霊するという、済州島独自の風習のひとつ。劇中、「第五のマダン」以降で演じられる。
BACK

©Sinkansha